ぶどう狩りのはじまり
岡崎市でのぶどう栽培は、明治の終わりに隣集落、井田地域の有志3~4名が開墾、その後大正に入り、その開墾地にぶどうを植え付けたことが始まりです。
終戦後、2代目 重幸は、地方事務所に勤務する傍ら、養蚕業や農業にも取り組んでいました。
昭和22年サツマイモの苗を購入しに行った際、ぶどう一房が1円(戦後当時)で売れることを知って驚き、地方事務所の林務係として、勤務しながらぶどう栽培にも取り組むことを決意したことが始まりです。
そして、ぶどう栽培の「いろは」もわからないまま、桑畑を開墾してぶどうの苗を植え付けたのでした。
一方3代目 幸雄は、戦後学んだ農業を生かし、恩師・父の友人とともに、昭和23年からぶどう栽培に参入しています。
当時、重幸は地方事務所に勤務していたため、ブドウ栽培は息子の幸雄(3代目)が担っていました。
幸雄はぶどう栽培に取り組みながら、先進産地である福井県、山梨県、岡山県などへ視察研修に出るなど自己研鑽を重ね、現在につながっています。
昭和28年には、3人で始めたぶどう生産の仲間が5~6名に増えたため、ぶどうの共同出荷を始め、昭和32年には、それまでの養蚕業を廃業しました。
幸果園入口の馬頭観音
当園の入口には、馬の頭の形をした観音様が奉られています。
昭和19年頃まで、当家初代の故 鈴木定治郎は、牛に大八車を引かせ、炭俵や米俵などを運ぶ運送業で生計を立て、現在の幸果園(資本)の礎を築き上げました。
馬頭観音は、2代目 故 重幸が、当家の大黒柱であった大きな朝鮮牛をねぎらって奉ったものです。
ゆえに、馬頭観音は当家のルーツでもあるのです。
幸果園でぶどう狩り初開園
市場出荷時に屋号が必要となったので、当園の果物を食べた方々が幸福感を得られますように…という願いを込めて、2代目 重幸と3代目 幸雄の「幸」の字を入れた“幸果園”という屋号に決定しました。
現在の幸果園の誕生です。
市場出荷も数年経つと価格が低迷し始め、収益が不安定になったため、幸果園として何か新しい消費形態はないか、と「ぶどう狩り」を模索し始めていました。
当時のぶどう狩りといえば、山梨県の「遊覧園方式」(5m程の高棚の下で試食用ぶどうを食べ、その後気に入ったものを購入する方式)くらいしかありませんでした。
その後さまざまな視察結果から、現在の来園者の立場に立った「駒立ぶどう園方式」のぶどう狩りスタイルを考え出しました。
このような、【食べ放題、大人にはお土産付き】等のスタイルは全国的にも初めてでしたが、昭和35年以降の名鉄との連携で知名度が上がり現在に至っています。
オープンした年には、当園を含め3園で約3,000人もの入園者があり、ぶどう狩り組合も強固なものになりました。
当園は、開園当初、県道沿いにある面積の小さなぶどう園、3ヶ所で主に入園者を受け入れていました。
しかし、昭和40年後半のマイカーブームに対応するため、それまでのぶどう園を廃業。
広い駐車場を確保できる現在の場所を開拓し、4代目 吉地(よしくに)が就業する昭和50年に営業を始め、現在に至っています。
左:昭和40年頃の幸果園のにぎわい
中:昭和50年 新開拓 幸果園で初開園
右:昭和51年 新開拓 幸果園で開園式